2011年12月TIMEを読む会

A Great Leap Forward
Can China's famously thrifty workers become the world's big spenders?

The voices in the garden restaurant at the high-end Bulgari Hotel in Milan are what you'd expect: those of Italian businessmen and -women enjoying lunch and a cigarette on a pleasant afternoon. A few Americans mix in, relishing a European getaway — they're not strangers to Italy. But that would not necessarily be true of the table of Chinese visitors. Or the busload of Chinese tourists gathering in front of the famed La Scala to hear a guide explain the history of opera. Or the others exploring the magnificent cathedral Il Duomo. Perhaps they arrived on one of the three weekly...
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大躍進
倹約家で名高い中国人労働者は、世界が期待する消費者になれるのだろうか。


ミラノの最高級ブルガリホテルのガーデンレストランから聞こえてくる声は、お馴染みのものだ。イタリアのビジネスマンの男女が食事をとりタバコを燻らせながら、心地よい午後を楽しんでいる。そこにはヨーロッパの保養地でくつろぐ2~3人のアメリカ人も混じっている。その姿はイタリアでは珍しくない。しかし中国人観光客のテーブルには、必ずしもそれは当てはまらないだろう。あるいはバスいっぱいに乗りこんでやってきた中国人観光客が、有名なスカラ座の前に集まって、ガイドがオペラの歴史を説明するのを聞いている。典雅なドゥオーモ大聖堂を散策している中国人もいる。今では上海からミラノまで開通した中国航空の週3便のうちの一つに乗ってやってきたのだ。そして6月開催のパリ航空ショーの時期には、ほぼ200億ドルに達するアジア・エアラインのボーイングやエアバスの予約でいっぱいだったので、さらなる観光客が期待される。

中国人観光客は、西洋風の歓待を求めて外国に出かける必要はない。中国南部の海岸沿いにある三亜では、マリオットが最近リッツカールトン・リゾートを開設した。マリオットもスターウッドも、リッツカールトンやセントレジスから大衆向けのコートヤードやフォーポイントまで、ものすごい勢いで中国内に建設している。同時に、2020年には年間1億人もの中国人観光客が押し寄せ、世界各地の人気スポットに姿を現すと予測してその受け入れ準備をしている。

彼らは、北京からやってきた34歳のグーグルマネージャー、ジャオ・リンのような観光客だろう。ジャオは「文化や歴史を満喫できるから」イタリアが大好きだと言う。そしてプラダ、グッチ、フェラガモ、フェンジがあるからだと。大都市で活躍する女性に必須の贅沢品を、ジャオは既にいっぱい買い込んでいる。彼女と技術マネージャーの夫は車も複数台持っている。彼女の車はフォルックスワーゲン・パサートだ。小売業者にとってジャオのような人たちは、ますます重要になっている、とコンサルタント事務所KPMGチャイナの消費市場担当長であるエレン・ジンは言う。「女性も含めて多くの若手中国人が、自分の会社を経営したり、重役級のポストに就いたりして、より多くの可処分所得を手にしています。彼らは贅沢品を、まさに自分たちのためにあると考えています。頑張った自分への褒美なのです」

世界最大の多国籍企業は、多くは米国に本社を置いているが、今まで長年にわたって中国人消費者が育ってくると望みをかけてきた。しかし米国やヨーロッパの経済が過去数年間、景気回復に苦しんできたので、自動車から一般消費部門、あるいは通信機器部門まで、ほぼすべての企業がより大きな販路を中国に期待してきた。それは単に数の問題だ。ほとんどの西洋諸国が2%以下だったのに比べると、中国経済は前四半期で9.1%成長した。西側の収入は停滞しているが、中国人の個人所得は非常に豊かになると考えられている。

これは大いなる逆説だ。ガタガタの西側経済は、その資本主義的富を救済するために中国共産党を頼みにしている。逆に、中国政府は経済的均衡を取り直すための重要な政策を、西洋式物質主義に依拠している。大幅な賃金引上げによって、都会風に洗練されたジャオのような人たちだけでなく、中国13億人のより広範な人たちを含む新世代の消費者を生み出そうとしている。「倒れるまで買え!」とは、長征を戦っている毛沢東の胸に去来したスローガンではなかっただろう。しかしながら賃金と消費の増加は、中国の貧しい労働者層と新興中流層との大きな格差を埋める一つの方法だ。2020年には中流層が7割を占めるようになるだろう。もし上手くいけば、中国の消費大国への変身は、世界経済に占める大きな部分を、米国消費者から中国が引き受けることになり、ビデオゲームから手術具やポテトチップの何から何まで、中国あってこその市場になるだろう。「頑張り屋のこの世代は、世界経済の救世主になるでしょう」と中国の成長を期待して何十億ドルを注ぎ込んできたペプシコ社拡大中国圏(中国、台湾、香港)会長ティム・ミンジズは言う。「中国中流層が、米国のベビーブーマーのようになると、心から信じています」

この役割転換はもう一つの要素を含んでいる。ペプシ、フォルックスワーゲン、モトローナなどの企業の製品はかつて中国製だったが、今では中国向けの製品へとどんどん変化してきている。だから中国の最新のおしゃれに敏感な若者たちは、輸入靴のフェラガモを履きたがっている一方で、同国イタリアのライバル会社ジェオックスは、中国で生産して中国で販売することによって急激に販路を拡大している。ソニーも同様で、かつては中国人が日本製ソニーの製品に憧れたものだが、今では中国人女性が大好きなピンクをカラーバリエーションにして、ピンクラインナップで売り出している。最近HPは西側向けにではなく、中国西部を販路としたコンピューターを生産するために、重慶に工場を建設した。スターウッドホテルは、セントリジス、シェラトン、Wなどのホテルを経営しているが、1ヵ月間、管理チームと重役会議を上海に移設した。CEOフィリッツ・ヴァン・パッシェンは、将来の顧客に少しでも近い距離にいる方がいいと考えたのだ。スターウッドは84のホテルを既に中国内にオープンしているが、現在100のホテルを建設中だ。最近のGAPの次の発表がすべてを語っている。この有名な米国ジーンズ会社は米国内の販売店の20%を閉鎖し、中国内の販売店を3倍にしようとしている。

会社の投資は莫大で、規模が大きく、長期にわたるものだ。ペプシ、レイズポテトチップス、クェーカーオートミールを生産するペプシコは、巨大な研究開発センターを上海に建設し、その中には各製品分野のパイロット工場があり、食品研究員が地域特産品を含むアジア向けに開発された新商品を短期間でテストし、数ヵ月以内に市場に出せるようにするつもりだ。スイスの大手製薬会社ノバルティスファーマは10億ドルをかけて、世界で3番目に大きな6棟の研究開発センターを上海に建てている。このセンターは、治験のための外注化や低コストを狙ったものではない。「我が社で第一級の研究センターの一つになるでしょう」とノバルティス社CEOであるジョー・ジメネツは言う。ケンブリッジ、マサチューセッツ、そしてスイスのバーゼルに匹敵するセンターになるだろう。なぜなら中国は重要な薬剤の成長市場だからだ。例えば、成長する中産階層の食事は豊かになり、糖尿病が増えてくる、その結果インスリンの需要が伸びるという訳だ。重要な問題は、どれほど中産階層が拡大するかだ。もし米国が2つに分けられるとすれば、百万長者から最貧困層まで中国は4つに分けられる。沿岸地方の都市では、平均年収は5,000ドル以上だが、地方に行くと数百ドルにまで減少する。中国では貧富の格差が非常に大きい。中国のジニ係数(社会の格差を数値化したもの)は、世界で最も大きく、最も急速に拡大している一つだ。そのような格差は中国で政治的不穏を増加させている。ヘッジファンドマネージャーのジム・チャノスなど多くの著名な投資家は、中国を一つの巨大なバブルと見ていて、今にも破裂しそうだと言う。ジムによれば、中国の全投機的資本は「ドバイの1,000倍」にもなりそうだと言う。

しかしもし中国共産党が新5ヵ年計画にうたっている不安定な再均衡政策を上手く領導できたとしたら、何百万という農民工は、10年間米国労働者が持てなかったものをすぐさま手に入れるだろう。実に大きなものを。政府は来る5年間で最低賃金を13~15%引き上げることに、とりわけ多くの市民の収入を倍にすることに照準を合わせている。

そして中国政府は世界で最多数の労働者がその金を使ってくれることを期待している。1980年代初期の中国で経済改革が始まったとき、消費者支出はGDPの50%以上だった。2009年までには、賃金が上昇したにも関わらずそれが36%に下落した。その理由は、輸出産業や、広大な大陸全体に人や製品を輸送するために、政府がインフラの拡張に資金を投入したからだ。

西側企業が望むようなかつてなかったほど大きな消費世代(ポスト80年代世代と呼ばれる)を育てるために、あらゆる投資が種を蒔いた。現在20~30歳代の人たちは、中国が計画経済から市場中心経済に移行し、西側の製品や生活様式に抵抗がなくなった時代に成人した。この世代の若者は成長し続ける中国しか知らないし、苦しい生活の中で、収入の35~40%を蓄えた両親や祖父母のような節約はしないだろう。「彼らはあまり貯金をしません」と上海を拠点に営業するホライズン・コンサルタントグループ代表のヴィクター・ユアンは言う。「彼らの預金率はかなり低いので、消費に向けるのはずっと簡単です」

本当にこの世代は、世界経済を救うほどに消費するのだろうか。米国の消費支出はGDP15兆ドルの約70%であり、それが国家的財政危機を引き起こしたのだ。中国に関して言えば、大量消費への大移動を支える数字は、世界を変えるだけの力がある。中国の2011年GDPは約6兆ドルだ。消費者支出が現在のGDP比36%から政府が公言している目標の45%に跳ね上がれば、5400億ドル相当の消費支出が一般消費財やサービス部門へと移行するだろう。米国でこれに匹敵する額が消費支出なら、米国GDPを3.6%引き上げるに十分だろうし、景気は上昇するだろう。そしてそれは中国経済を成長させる要因すらならない。最近の数字のように、もし経済が1年で9%成長し、その成長の半分が消費支出にまわれば、現在の実績を参考に計算すれば、2年以内で容易にさらに5,000億ドル支出は増えるだろう。確かにこれは最も強気なシナリオだ。しかし国際企業なら、絶対にこのような刺激策が用意されていることを見過す手はないだろう。

< マルコポーロの逆を辿る >
香港ベースで豪華ホテルを経営するニューワールドホスピタリティの営業部長サイモン・ブライドルの頭の中はまるで数字が飛び交っているようで、中国での旅行業の見込みを計算している。「中国内のホテルには現在160人収容可能な部屋があります。米国には480あります。考えてみてください。国内の成長によって生み出される大きな可能性がホテル業にはあるのです」ボストンコンサルタントグループの概算によれば、中国には100万所帯の百万長者がいる。彼らが旅行を楽しみ始める時に備えておきたいとブライドルは考えているので、ニューワールドは最近2億3千万ドルを投入してローズウッドホテルリゾートを手に入れて、中国グルーポンの合弁企業・高朋のシニアマネージャーのリュウ・イニン(32歳)のような旅行者を呼び込みたいと考えている。彼女はビジネス以外に、1年に少なくとも2週間は観光旅行に出かける。「まだ行っていない場所へはすべて行ってみたいわ」と彼女は言う。そのリストはだんだん減っていく。ヨーロッパ、米国、韓国、東南アジアの国々はほとんど行ったので、10月には初めて日本を訪れようと考えている。

 大移動は既に始まっている。海外旅行に出かける中国人はおよそ5,400万人で、過去10年間で4倍になった。2020年までにはその数字は優に1億人になるだろう。すでにパリ市観光局は、多くの旅行客をどう収益に結びつけようかと知恵を絞っている。「私たちは、2025年までに約200万人の中国人がパリを訪れると見積もっています」とパリ市観光局長ポール・ロールは言う。現在の3倍以上の人数だ。76,600の客室を有するパリ市にとっては、たとえラッフルズ、マンダリンオリエンタル、シャングリラのようなアジアのホテルチェーンが、光の都パリで部屋数を増築中だとしても、なお頭の痛い問題だ。だからこそ都市計画局がパリ市北部地域で、有名なお隣のパリを真似た第2のパリを創ろうとしているのだ。

 もちろん、中国人は国内旅行もし、散財をするだろうが、それが可能になった理由の一つには、大規模なインフラが整備されたことがある。中国は2020年までに特急列車の走行距離を、世界中(中国を除く)の特急の総距離よりも長くする計画をしており、その走行距離は16,000Kmになるだろう。特急は、中国内部の武漢から広州まで海岸線を走り、所要時間は14時間から3時間半まで短縮するだろう。新しい空港が猛烈な勢いで建設中であり、前代未聞の旅行ブームを作り出している。チベット航空はラサ発の新しい航空会社だが、3機の新しいエアバスA319の第1便を運行中だ。

-*-*-中国のKFCは、粥食の朝食やティータイムメニューを提供している。これにはカーネル・サンダースもきっと面食らうだろう。-*-*-*-

新たなインフラの多くは、すでに栄えている沿岸地方と、急激に発展を遂げる西部地方の2流~4流の地方都市とを結びつけているが、これらの地方都市では、国内消費が猛烈にかきたてられることがよくある(上海や北京のヤッピーたちは、パリに出かけて流行の贅沢品を買うことができるが、最近大金を手にした重慶の若者たちは、国内でルイヴィトン専門店が開店するのを待ちかねている)。

三亜のような突然出現した新興地域に住む中国の富裕層に、小売業からバスツァー、超豪華なリゾート地まで、今までにない様々な機会を提供し、そこにはリッツカールトンも店を構えている。これらを総合して言えることは、中国人をターゲットにしようとする会社は、より厳しい競争にさらされており、今まで以上に懸命に働かなければならないことだ。マリオットやスターウッドは、中国人旅行者向けに中国語によるサービスや食事、ドリンクなど様々な特別サービスを提供するプログラムを、非中国系ホテルで展開している。スターウッド支配人、ヴァン・パースチェンは、最終的には、すべてのホテルは勿論、フランチャイズ加盟店にも、中国人旅行客の意向に応えられるような努力がさらに必要になるだろうと考えている。

-*-*-新しい味を流行らせる-*-*-

 ヤム!ブランズチャイナのCEO、ヤム・スーは、中国人の嗜好はすでに会社を変えつつあると考えている。ヤム!は米国に本社を持つ多国籍企業で、ピザハット、タコベル、KFCを経営し、長年中国でも営業してきた。1987年に初めて中国でKFCを開業した。海岸線から1,600km内陸に入った120万人都市天水のような所にも、1日1店舗の割合で開店し、国内に3,200店舗を持つ。中国でチベットを除くすべての地域にKFCがあり、700以上の都市にレストランを経営する。「2~4レベルの都市、あるいはもっと小さな町にも、さらに進出してみせますよ」とスーは言う。また、KFCは米国の本家筋とは違ったやり方を取り入れていることがわかる。「米国流のやり方をただそのまま中国に持ち込んではダメです。今では非常に優れたビジネスモデルになっています。むしろこっちが主流になりました」中国風KFCはフライドチキンではない。中国人消費者は普段の食べ物として食べたがっているのだ。たとえばコンジ―(中国粥)のような伝統的な朝食とか、カーネルも面食らうようなティータイムメニューだ。

中国の消費者が経験を積むにつれて、ブランドに対する見方も変わってくる。ペプシコが中国に進出した最初の何十年かは、単にアメリカ流のソーダ、レイズチップス、クエーカーオーツなどの製品の味に慣れさせて、多くの顧客を獲得しようとした。今では目や口が肥えた消費者を満足させるだけの製品を提供しなければならない。だからトコトン土着の味にこだわった製品を中心に素早く展開できる研究開発センターが必要となる。「中国人が大量消費へと大きくシフトするのは間違いありません。私が初めて中国に来た時は、ブランド、ネームバリューがすべてでした。外国製品は憧れの的だったのです」とミンジズは言う。ブランド商品が普及し、ペプシがより深く中国に浸透したとき、ブランドのネームバリューから、狙いは味覚や調理法に関する伝統的な価値へと移っていった。

そこでペプシコは、中国の食文化にマッチした風味を開発しなければならなかった。チップスのレイズブランドの中で、ペプシが現在使用している風味の35~40%は地域特産のものだ。夏にチップスの売り上げが落ちると気づけば、夏に中国人が好む涼を呼ぶ食感の味シリーズを考案した。たとえば胡瓜風味がある。中国には湖南省や四川省などスパイシーな料理を好む多くの地方都市があるので、辛くて酸っぱい魚風味の酸湯魚味チップス (hot and sour fish soup flavor)を売り出したが、それは誰もが大好きな酸辛湯(スーラータン)の風味に似せたものだ。ついにはせっかちな四川人向けに、究極の麻辣風味チップス(numb and spicy chip)を考え出すに至った。一方クエーカーオーツは、米飯文化の中にオートシリアルを売り込むことは困難だと判断して、一転して、中国の典型的な朝食のコンジーをブレンドした製品を考案した。その中には紅ナツメ、クコ、白キクラゲなど、中国人が薬膳だと考えて使っている食材が入っている。

ノバルティスのような会社にとっては、中国政府がより良い医療の提供を約束していることが、より大きなビジネスチャンスになるだろう。ノバルティスのジェネリクス部門は、中国の貧困地域で必要な低価格のインフルエンザワクチンを製造でき、拡大する中産階層は過去には入手できなかった医薬を購入するようになり、上海にある国際レベルの研究開発センターは、国民の間に蔓延する疾病の治療を進歩させるだろう―その研究員の大部分は米国で教育を受けた科学者が占めているのだが(彼らの収入はヨーロッパや米国の60%だ)。上海では、科学者の数を3倍の600人に増やし、豊かさがもたらす疾病に対処しようとしている。中国人があまり動かなくなり、肉や糖分の摂取が増え、喫煙人口が増え続けると、疾病の様相は変化する。例えば糖尿病は9,200万人以上になり、肝ガンなどの他の疾病も今ではかなり増加している。ノバルティスは、国家食品薬品監督管理局が医薬の安全性を改善するのを援助さえしている。「ワクチンから新薬まで、政府に対して独自の立場で幅広い提案をしていきます」とCEO、ジメネッツは言う。

建築物のような複雑なものでも、中国の影響はあまりに巨大で抗い難い。ドイツ生まれのオレ・シーレンは著名な建築家レム・コーラース事務所のパートナーとして、北京の優雅なD型CCTVビルのデザインを手がけた。このようなビルを建築することで、中国が世界に対して強力な発信力を持つことができた。ほとんどの西側諸国の関係者とは違って、シーレンは中国に留まった。彼はコーラース事務所を辞職し、自分の事務所を構え、今では北京市の中国人シティープランナーと共に働いている。現在携わっている一つの事業は、コーラースが自称するところの、ドバイからクアラルンプールまでどこを見てもないような、巨大な複合プロジェクトだ。「中国に西洋式デザインを持ち込もうとは思いません。中国に中国式デザインを創造するのです」とシーレンは言う。もしシーレンの理解が正しければ、彼のプロジェクトが尽きることはないだろう。なぜなら中国は決して尽きることがないだろうから。

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【7月26日 AFP】中国の高速鉄道は2007年、上海(Shanghai)~蘇州(Suzhou)間で開業した。営業距離はわずか4年で8300キロを超え、世界最大の高速鉄道網に発展。中国共産党創立90周年の前日にあたる6月30日には北京(Beijing)と上海を結ぶ高速鉄道が予定より1年早く開業した。 鉄道輸送システムの需要が高まるなか、中国政府は近年、高速鉄道の整備に多額の投資を行ってきた。高速鉄道への財政支出は昨年だけで7000億元(約8兆5000億円)。今や高速鉄道の営業距離としては中国が世界の約半分を占めるまでになったが、その高速鉄道網は現在でも急速に拡大を続けている。営業距離は2012年までに1万3000キロ、2020年までに1万6000キロ以上に伸びる予定だ。

The Inventor Of the Future

Steve Jobs remade the world as completely as any single human being ever has, but he had no business doing it. He wasn't qualified. He wasn't a computer scientist. He had no training as a hardware engineer or an industrial designer. He had a semester at Reed College and a stint at an ashram in India. Jobs' expertise was less in computers than it was in the humans who used them. If that were all he'd had, Jobs might have been a talented psychotherapist or maybe a novelist, like his biological sister. The genius of Jobs, and the paradox, is that... The Inventor of the Future

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未来の発明家


スティーブ・ジョブズは、かつてどんな人間も決してなしえなかったほどに、世界を創り変えたが、それについては何の資格もなかった。ジョブズは正規の資格は何も持っていなかった。コンピューター科学者ではなかった。ハードウェア・エンジニアや産業デザイナーとしての訓練も受けていない。リード大学に1学期間在籍し、インドの僧院で4ヵ月を過ごした。ジョブズにとっては、コンピューターについてよりも、むしろそれを使う人間についての経験の方が深かった。

 もし彼の才能がそれだけだったとしたら、ジョブズは心理療法士か小説家にでもなっていたことだろう。そう、実の妹が小説家だったように。ジョブズが天才的だと言える由縁は、また逆説的だと言える由縁は、ジョブズが我々人間を完璧に理解している一方で、彼自身は人間離れしていたことだ。彼は超人的だった。

 人間の精神は鈍化していくものだ。ジョブズの精神はそうはならなかった。せいぜい一産業に革命を起こせるのが精いっぱい、これがテクノロジーの世界では常識だが、ジョブズは数年間にわたって毎年、驚くほどの確実さで革命を成し遂げてきた。コンピューター、映画、音楽、電話の分野で。我々凡人とは違って、ジョブズは自分に対する揺らぎはなかったが、ナルシストのような自惚れもなかった。ジョブズは自分の過ちから学んだが、間違いの数は多かった。自分でそう言ったように、何度も間違いを繰り返した。

 ジョブズは同世代の中で超有名な成功したビジネスマンになった。2011年に、アップル社の時価総額はエクソンモービルを抜いて、世界で最も資本価値のある会社になったが、そのやり方は軌道を逸したものだった。顧客の言うことは意に介さなかった。ジョブズはウェイン・グレツキーの言葉を引用するのを好んだ。『パックが行くところを追いかけていては駄目だ、パックが行くところに先回りしなければ』(グレツキーがこの言葉を実際に言っていないかも知れないが、そうならますますジョブズらしいということになる。スティーブがそう言っているなら、きっとそうだ、すごい奴がそう言った、となる)。ジョブズが他者の情報を集めるのではなかった。ジョブズが発信源だった。

 ジョブズは偉人として記憶されるだろうが、必ずしも優しくて好人物としてではないだろう。自社の従業員に対する非情さは伝説になっている。アップル社の外部では、世代の独創性を賞揚したが、アップル本社の中ではワンマンで、自分以外の発想を許さなかった。ジョブズは能力のない者に対しては容赦しない、というよりはむしろ非情と言ってもよかった。同世代のライバル、ビル・ゲイツとは違って、富豪から慈善家への転身はなかった。彼が作った製品の完成度には、他者への深い理解が現れていると同時に、他者への猛烈な攻撃性も現れていた。絶対的な完成度を目指すが故に、他者がその完成品を拒むことができないのだろう。

 おそらくジョブズは、始めから独特な感性を持っていたので、独創的な発想ができたのだろう。1955年サンフランシスコで、シリア人大学院生とそのガールフレンドとの間に生まれ、即座に養子に出された。ポールとクララ夫妻(ポール・ジョブズはレーザー光線を扱う機械工、クララは会計係りだった)によって、シリコンバレーがシリコンバレーになっていく時代に育てられた。

 ジョブズがまだ21歳のとき、アップル社を立ち上げた。公式の設立は1976年のエイプリルフールだ。独学のエンジニアで稀有な才能を持つ親友、スティーブ・ウォズ(ウォズニアック)が共同設立者だった(第三の設立者はロナルド・ウェインだが、彼は2週間もしない内にアップル社を去った)。ジョブズはすでに多くの経験を積んでいたが、会社設立の準備として一般的に考えられる経験ではなかった。オレゴン州ポートランドのリード大学で不幸な1学期を過ごし、自分に合うと思うリード大のクラスに『出没』して幸福な18か月を過ごした(西洋書道のクラスを聴講し、後に製作するすべてのアップル社製の優雅なフォントにそれは生かされている)。シリコンバレーのアイコン的企業HP社とアタリ社で下っ端的な仕事をしたが、独創的なゲームソフト『ブレイクアウト』の原型は自分が創ったのだと、そうとも言えるがやや怪しげでもあることを主張することが多かった。心の旅を求めてインドに旅行し、幻覚剤を使ったりプライマル・スクリーム療法(成人後に影響を及ぼしている初期のトラウマを再体験することによって克服する治療方法)を受けたりした。

 ウォズはテクノロジーに関しては第一級の天才で、コンピューターが好きだからコンピューターを創った。ジョブズはコンピューターを売るのが好きだった。2人が製作した初の製品はアップルⅠで、ほとんどそれは1977年製アップルⅡの助走だった。アップルⅡの内部には、ウォブのエンジニアとしての才能が詰まっているが、コンピューター全体に見られる多くは、使い勝手の良さから見事な外部のデザインのこだわりまで、ジョブズの鋭い才能の萌芽的閃きが見られる。ほとんどのコンピューターが高校生の趣味的なものでしかなかった時代に、アップルⅡは消費者を対象にした電動具で、ベストセラーになった。

 1981年にウォズは、V-テールビーチクラフトボナンザ機を操縦中に墜落事故を起こした後、回復に何か月もかかり、その後は名目上のアップル社員として復帰した。それ以降はジョブズがアップル社の運命を握る唯一の人物スティーブとなった。1979年にカリフォルニア州パロアルトにあるゼロックスPARC研究所を訪れたとき、グラフィック・ユーザー・インターフェースやマウスで動く実験的コンピューターなどを目にして、ジョブズは驚愕した。「10分もしないうちに・・・すべてのコンピューターがいつの日かこんな風に動くようになるだろうと確信した」とジョブズは後に語った。キャリアを積む中で、この瞬間のことを彼は何度も繰り返し語った。ジョブズは発明家ではなかったが、誰よりも早くその中に潜む力を認めた。ゼロックスが持つ可能性を、ゼロックス自身が自覚する以上にジョブズは認めて、こっそりと、しかも意気揚々とそれを拝借したのだ。

 アップル社は、ゼロックスPARCのアイデアをリサという10,000ドルのコンピューターとして最初に発表したが、不成功に終わった。1984年に2人は、それを改良したマッキントッシュとして再び売り出した。ジョブズが率いるソフトウェアとハードウェアの若き天才たちのドリームチームの産物だった。ジョブズはリドリー・スコット監督によるスーパーボールのコマーシャルでMacを売り出したが、IBM-PCの存在を、オーウェルが描いた暗黒社会として表現し、強烈な印象を残した。2,495ドルのMacをジョブズは『信じ難いほどの素晴らしさ』とやや自画自賛的に呼び、ジョブズといえばアップルという印象を不朽のものとした。

ジョブズは正しかった。しかしMacにも大変な欠陥があった。最初の型はメモリー容量が128KBという貧弱なもので、拡張スロットもなかった。コンピューターの第一人者アラン・ケイは当時アップル社で働いていたが、Macを「たった1ガロンのガソリンしか入らないホンダ車」と称してジョブズを怒らせた。そんなことは問題ではなかった。世界中の誰をもまだ引き離しているし、エンジニアリングを正規に学んだ技術者だってまだ追いつけないだろうと、ジョブズは内心考えていた。機能よりもデザインが重要だ、と。今あるどんな動力も、使い方がわからなければ役に立たないのだ、そして優れたデザインが機能を支える、と。

ジョブズ独特の経営スタイルもまた注目を集めた。ハッカーはコンピューターにハッキング(不正侵入)するのだが、ジョブズはそのハッカーをハッキングし返した。「ジョブズはハッカーがすごい奴だと期待して、すごいものを創ってほしいと期待したんだ」とアップル社ベテラン社員ラリー・テスラ―は、PBSドキュメント『オタクの偉業』で語った。「そしてジョブズは、ハッカーを鼓舞するように仕掛けたんだ」ジョブズは人間を理解していたが、芸術家がするような理解ではなかった。詩を書いて人間について語ろうとはしなかった。これはジョブズのもう一つの才能であり、最も嫌がられる点だった。自分が望むことを人にやらせる術を心得ていたし、本人ができると考えている以上のことを、自分のために発揮させたが、本人が心底やりたくない時でさえそうさせることができた。そしてジョブズは進んでそうした。興味を持てない人間は解雇したし、アップル社の内外で彼が間抜けとみなした人間は大勢いた。ジョブズは不運な応募者を苦しめた。ジェフ・ラスキンはマッキントッシュ・プロジェクトの創始者だが、「ジョブズなら立派なフランス国王を育てたことだろう」と言った。

 ジョブズが食指を動かした人物の中に、アップル社の社長で元ペプシCEOジョン・スカリーがいた。「一生あなたは砂糖水を売って過ごすつもりか、それとも私と組んで世界を変える気はあるか」と挑発的な言葉でアップル社に引き込んだ。マッキントッシュ部門でのジョブズのやり方に不満を募らせたスカリーとアップル社重役会は、Macの売れ行き不振に勢いを得て、1985年5月にジョブズからすべての決定権を剥奪した。9月にジョブズは辞職した。

 何十年か経った今思い返せば、スティーブ・ジョブズがいないほうが会社のためだ、とアップル社が決定した意味は、ウォル・トディズニー・プロダクションがウォルト・ディズニーを解雇することに匹敵するほど理解しがたいことだ。だが1985年には、多くの人たちが素晴らしい考えだと思った。「アップル社は次のステップへの発展途上にあると思います」と匿名社員はインフォワールド誌のインタヴューで語っている。「蝶ネクタイ、ジーンズ、サスペンダー姿のリーダーのイメージで、これから何年間も会社が持ち堪えていけるのでしょうか」

 アップル社の何百万とロス・ペローやキャノンからの資金援助を受けて、アップル社よりもさらにジョブズらしいコンピューター会社NeXTをジョブズは設立した。最先端技術を駆使した工場を建て、伝説的なデザイナー、ポール・ランドが考案したロゴを付けたNeXTシステムは、最新技術が詰まった、光沢のある黒い立方形だった。不幸なことに、市場を見込んで製作された製品だったが、ほとんど売れずに終わった。6,500ドルもする専門的なコンピューターを誰が買っただろうか。たった50,000台を販売した後、NeXTはソフトウェア専門に狙いを戻したが、ジョブズは次の発明を、遠回しに自分の功績だと主張することもできた:ティム・バーナーリーはNeXTでワールドワイドウェブ(www)を開発したのだ。

何年もの間、ジョブズがアップル後に立ち上げた企業ピクサーもまた失敗するかに見えた。この映像作成コンピューターは売れ行きが悪かったので、ジョブズは個人の資産を何百ドルもピクサー存続のためにつぎ込んだ。しかしながら副次的製品として、ピクサーでコンピューターアニメを作成し、それがオスカーを獲得した。1995年に、ディズニーがピクサー製作のアニメ「トイストーリー」を封切った。このアニメが年間最高の興業収益を上げ、ジョブズは10年目にして文句なしの成功を得た(2006年に74億ドルでディズニーにピクサーを売却するまでに、ジョブズのビジネスは最高に眩い頂点に達していたので、ピクサー売却は単なる素晴らしいつけ足しに過ぎなかった)。

ジョブズは後年、ネクスト・ピクサーの時代は『わが生涯で最も創造力を発揮した時期の一つ』と呼び、アップル社から追放された時期は、『最も苦い薬だったが、自分に必要な薬だった』と言った。その時期はまた、未婚のまま一人の娘をもうけたり、ジョン・バエズとデートしたり、独身時代を謳歌する時期から、結婚に至る過渡期でもあった。1991年にローレン・パウエルと結婚し、1998年には1男2女の親になっていた。

一方ジョブズのいないアップル社では、桁外れの不振が続いた。スカリーは先見の明がまったくないアップル社CEOマイケル・スピンドラーに席を譲り、次に就任したギル・アメリオは、1996年、1997年会計年度で16億ドル以上の損失を出した。ギルは会社を売却することすらできなかった。救世主になってくれそうなIBMやサンマイクロシステムとも売却は不成立に終わった。アップル社の資金が尽きて倒産することは現実問題になった。マイケル・デルは公然と、アップルはパーツを売却すべきだと言った。

アメリオはアップル社に在籍した17ヶ月の間に、一つの素早い動きを見せた。1996年のクリスマスの前に、そのソフトウェアは次世代のMac運用システムの基礎として使えるだろうと考えて、4億ドルでNeXTを買い取った。彼は正しかった。2001年以降製作されたiPhoneやiPadなどのアップルのすべての運用システムはNeXTの直系だ。ネクストソフトウェアにはおまけがついてきた。スティーブ・ジョブズだ。ジョブズが共同設立した会社だから、形式だけのリーダーに気楽に収まってくれるだろうと、アメリオは無邪気にも考えていた。ところが合併の6ヶ月後、ジョブズが首謀者となってアメリオを会社から追放し、暫定CEO(iCEO)の座に収まり、ピクサー経営と掛け持ちした。「私はほとんど毎日ここにきている」とジョブズは1997年にタイム誌に語った。「しかしそれは数ヵ月後を見越してのためだ。それははっきりしている」彼はついに2000年にiCEOから正式なCEOになった。

ジョブズの復帰は悩めるアップルファンを元気づけたが、ほとんどの産業批評家は奇跡を信じていなかった。しかし納得した。ジョブズはビジネス界で史上最高のカムバックを果たした。アップル復帰の最初の数ヵ月で、重役連中を退陣させ、社員を解雇し、コスト削減をし、何十という製品を廃止し、長年のライバル企業マイクロソフトから1億5,000万ドルの救援資金を受け入れた(1997Macワールドエキスポ基調講演の最中に、ジョブズの頭上にあるBSスクリーンにゲストとしてビル・ゲイツが登場した時には、聴視者からブーイングが湧き起こった)。

ジョブズは、「独創的であれ」という意気揚々の天邪鬼的なキャッチコピーを繰り返し、人々の心をつかんだが、すぐには市場へ反映しなかった。それから一体型Macの発売にのりだしたが、その外装は、その後主要アップル社製品のデザインをすべて手掛けることになる英国人産業デザイナー、ジョナサン・イヴによるもので、半透明のキャンディーカラーだった。「エンジニアの処に持ち込んだとき驚いたようで、不可能な理由を38も数え挙げた」とジョブズはタイム誌に語った。「そこで僕は言った。いや、我々は今現に進めているんだ」すると彼らは言った。「えっ、何で!」僕は言った。「だって僕はCEOだし、可能だと思うからだ」今ではそれは派手な時代物に見えるが、その時はコンピューターの外見だけでなく、コンピューターに対して人間がもつ感覚をも塗り替えるものだった。1998年には、iMacは米国でベストセラーコンピューターになった。

転向芸術家のような振る舞いから、世界の変革を願う人に次第に戻っていった。「我々の世界では、勝利することは生き残ることだと言われます」とジョブズは2001年にタイム誌に語ったが、当時アップル社はまだ回復途上にあった。「我々が生き残る道は、ここから新しいものを創りだすことです」

この年の5月、アップル社はヴァージニア州マクリーンとカリフォルニア州グレンデールに小売店を建設し、何百もの小売店に発展する最初の店になった。ジョブズは建築に対して病的なほど詳細な指示を出し、どの石切り場から採れたタイルかだけではなく、石切り場のどの部分から採れたかまで知っていた。その結果は無駄のない、整然とした完璧さだった。小売業者は、なぜ安いウィンドウズではなくてMacがお薦めなのか、消費者を上手く説得できなかった。ならばMacが自ら説明の任にあたろうではないか、自ら考案したミニチュア劇場で。売り上げは大規模小売店を上回り、しかもジョブズは余暇でそれをやったのだ。

アップルとジョブズの挽回の勝負時は9.11攻撃から6週間後にやってきた。カリフォルニア州クパチーノ市にあるアップル本社でもたれたかなり小さな記者会見で、MP3プレーヤーの発売決定をジョブズは発表した。そしてポケットからiPod第一号をとり出した。その瞬間、アップル社は消費者向けの家電メーカーになった。

たちまち家電メーカーとして跳びぬけた成功を収めた。アップルはiPodを発明したのではなかった。その技術のほとんどは企業買収によって得たものだった。iPodは間違いなく市場最初のデジタルプレーヤーですらなかった。大した苦労はせず、大儲けをした。際立っていたのは、まるでタイムマシンから出現したかのように見えたことで、みんなが手に入れたがった。今回もまた、形態が機能を制していた。iPodは現代人のステイタスになり、とりわけMac・PCだけではなくウィンドウズにも互換性をもって以降は、なくてはならないものになった。真っ白なイヤフォンさえ人気の的になった。iPodはメディアプレーヤー市場の最良部分を獲得して、決して奪われることはなかった。

それは革命のほんの途上でしかなかった。最初、iPodの購入者は音楽を無料で入手し、しかも合法的にCDに書き込み、あるいはダウンロードした音楽をカザーのような仲間同士のネットワークで非合法的に『共有』した。平易で合法的な音楽供給が必要だと考えたアップル社は、2003年にiTuneミュージックストアを始めた。iTuneは優雅でジョブズらしいシンプルなデザインだった。1曲99セントで3台の機種まで流すことができ、CDにも書き込めた。この実現のために、ジョブズは2つの離れ業をやった。頑固で評判なレコードレーベルに楽曲のオンライン販売を説得するとともに、消費者には無料で聴ける音楽に料金を払うように説得したのだ。まるでインドのロープ奇術のようなビジネスを、しかも資金をかけずに(beat-free)やってのけた。最初の1週で100万曲が売れ、2008年には売り上げは50億曲になった。アップルが音楽業界に参入してから5年間で、ウォールマートを抜いて、米国最大の音楽販売会社になった。その時までに、iPodでビデオ鑑賞が可能になり、ジョブズの会社は映画やTVショーも提供するメジャーになった。

いかにiPodが貴重だといっても、しょせんハイテク化されたウォークマンに過ぎなかった。2007Macワールドエキスポで披露されたiPhoneは、はるかにすごいものだった。ポケットにピッタリ収まる優秀なパーソナルコンピューターだった。「時として画期的な商品が現れては、すべてを変えてしまうものです」ジョブズはiPhoneを紹介してそう言った。誰にとっても誇張された言葉に思えただろう。しかしこれに関してはまさに真実だった。不吉な黒いガラスケースの中に潜む度量は、容易に推し量ることができない。一挙にジョブズはまったく新たな試金石となるテクノロジーと、それに合うインターフェースを市場にもたらした。たちまちにして市場にある他のすべてのスマートフォンを時代遅れのものにしてしまった。

ジョブズにとって、これは単なるビジネスではなかった。個人的な思い入れがあった。ジョブズはマイクロソフトによってPC市場を制覇された。しかし今や家電市場において奪還できそうだったし、事実それを成し遂げた。典型的だったのは、一回戦でマイクロソフトに対して非常に有効だった戦術をそのまま適用せずに、実にスティーブ・ジョブズらしいやり方で応じた。Mac第一号のように、iPhone第一号には明らかな欠陥があった。第3世代携帯電話が普及したとき、第2世代携帯電話の貧弱な接続しかできないままの発売だった。しかしソフトウェアのデザインはかつてなかったようなあまりにも斬新なものだったので、もはやその貧弱さはまったく気にならないほどだった。

別の不思議なことは統制だった。アップル社の中に、統制に対する異常な執着が現実に体現された企業をジョブズは設立した。ほとんどの企業は、ハードウェアとかソフトウェア、あるいは制御システム、小売業、電化製品店など、いずれか一つに特化したものだったが、アップル社はこれらすべてを一括して支配下においた。ジョブズが称する『ホール・ウィジェット:ウィジェット(小型装置)を何から何まで全部を作る会社』を所有した。アップル製品を一度手にすれば、映画、音楽、アプリを全てアップル社オンラインストアで充当することができた。ジョブズはキラリと光る太陽中心的な絶対性を持ったテクノロジー的自己完結的宇宙を創りだし、誰もがそこに住みたがった。他社製品と互換性がある製品を作ることはやむを得ないことだとジョブズは理解したが(それはマイクロソフトのやり方だった)、本当に上手くやるには、自社ですべてを作らなければならなかった。

この考えは経験則に反し、実際的には反アメリカ的だったが、市場はジョブズが正しいことを証明した。iPhoneの競争は熾烈で、グーグルが提供するアンドロイド制御システムを使った携帯電話とは特に激しかった。しかしiPhoneエコシステム(電話機能にアップル社が提供するアプリ、映画、音楽を付加したもの)によって、他社の追随を許さない方法で成功を収めることになった。2011年までに、アップル社はiPhoneを1日に約210,000台を販売し、あるアナリストによれば、業界の売り上げの3分の2を占めるようになった。

2010年には、アップル社はiPhoneに続いてPC分野では初めての試みであるタブレット型コンピューターiPadを発売したが、これは20年間一つのヒット商品も生み出せないでいたものだった。まさにジョブズの例の得意な手口だった。どの会社もタブレットを持っていたが、ジョブズだけがその価値をわかっていた。ジョブズは発明したのではなく、それを作り変えたのだ。ジョブズによれば、アップル社はiPadを発売した初年度で1500万台以上を販売し、この数字はウォールストリートのアナリストの予測をはるかに超えた。

成功はジョブズにある程度の満足を与えたかもしれないが、それで落ち着くジョブズではなかった。相変わらず厳しく、要求は高く、時として不条理なほどの完璧主義だったが、それは何十年も前にアップル社が不要だと排斥したものだった。他の主要なシリコンバレーの企業以上に、発表する期が熟するまで、企業秘密を厳守した。アップル社に関するあらゆる記事には『アップル社のスポークスマンがコメントを差し控えた』という言葉があった。アップル社には数々の規律で律せられた、明らかに優秀な人材が豊富にそろっていたが、部下の裁量を徹底して許さないジョブズのマイクロマネジメントは伝説になっていたので、アップル社やその製品に敬意を払う人であれば誰でも、ジョブズ不在のアップル社など考えたくもなかった。株主たちは、ジョブズがいなくなるかも知れないと考えるとさらに神経質になった。ごく普通のCEOなら破滅しかねない自社株購入権の日付改ざんスキャンダルも、ほとんどジョブズの評判を貶めはしなかった。

だがますます世間は、ジョブズ無き後のアップル社という考えに直面せざるを得なくなった。ジョブズの一徹な考え方は、ライバル会社が、そして将来の継承者が育たないような状況を作った。2004年に、ジョブズは膵臓癌だと診断され、余命数ヵ月と宣告された。更に精密検査を受けると、治療可能な稀有な症例だとわかった。アップル社の日常業務管理を最高責任者テイム・クックに引き継ぎ、手術を受け、回復後職場復帰した。その後2009年の病気休暇中に、肝臓移植を受けた。2011年に再び病気休暇をとり、8月24日にCEOを辞して会長職に就き、CEOをクックに移譲したが、再び戻ることはなかった。

常に私生活を語るよりも、アップル社の新製品について語ることに幸せを感じたジョブズだが、闘病についてもほとんど語らなかった。しかし2005年にスタンフォード大学卒業式で行ったスピーチで、簡単に病気に触れた。「与えられた時間は限られている、他人の人生に惑わされて時間を無駄にしてはならない」と、他人の真似をして生きることなど、考えただけでも腹立たしい様子で語った。「ドグマに囚われるな。それは他人が思考した結果をもって生きることだ。他人の意見に惑わされて、自分の内なる声を見失ってはならない。最も大事なことは、自分の信念と直感に従って生きる勇気を持つことだ。自分の中にある信念と直感は、本当に自分が何になりたいかを、それとなくすでにわかっているものだ。他のことはすべて二次的なものだ」

ジョブズは、ほとんど常にそうだったように、正しかったし、自分が語ったアドバイス通りに生きた。彼は誰の真似もせず、自分の人生を生き、自分の信念と直感に従った。それが故に、破滅の縁に立ったこともある。それが故に、彼の信念と直感が他者の意見を圧倒し、彼らの内なる声を押しつぶしたこともある。しかしこれはジョブズの逆説であり、決して解決しないものなのだが、やり終えた時には、ジョブズは人類が見たこともないような創造性と自己表現の手段を作り上げていたのだ。彼は他の人たちにもまた、自分の人生を十分に豊かに生きてほしいと願い、絶対に我々がそうできるようにしようとした。我々がどう考えようと意に介さず。


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